ふと、なんでこの世界はこんなにも醜いんだろう?と考えました。
僕は常に「美しく生きたい」と思っていて。それは見た目ではなく内面的に、人間的な美しさというか。しかし、世界は常に醜い。
ネットを見ていると、いわゆる家族愛などの美談が流れてきたりしますが、それ含めて美しくないと思ってしまう。その理由はなんなのか?と深掘りしたときに「世界はマウントの取り合いだから」と気づきました。
人には優劣はないはずなのに、マウントを取り合う
そもそも論として、この世の中に絶対的な優劣はないはずです。というより、多様性というのは当たり前で、だれ一人同じ存在はありえないわけだから、比較がそもそもできないはず。
なのに、人は常にマウントを取り合ってますよね。
- 人種
- 宗教
- 国
- 学校のコミュニティ
- 学力
- 経済力
などなど。
人間には自我があり、強者でいたい欲求があるから仕方ないとも思うけど、でもこれらを比較するのはおかしいんです。
経済的豊かさでマウントを取り合う
別に経済的に豊かだから優れているわけでもないし、金なんてそこに価値がなくなったら紙クズなんですから、本質的に人間の優劣に関係はないはず。
逆に、貧困層は貧困層として、
- 清貧だとか
- 私たちは恵まれない。助けられるべきだ
などと、ある意味でマウントをとるわけです。
俺たちは優秀だ!とドヤるのも醜いけど、弱者なんですって声高で叫ぶのも醜いと思うんですよね。
フェミニストがなぜ醜いのか?
誤解のないよういいますが、女性は大切で、守るべき存在です。それは間違いない。
だけど、僕はフェミニストという存在はとても醜いと感じてます。というのも「女性自身が女性が守られるべきだ!」と宣言しているからです。
なんかこう、薄っぺらく感じませんか?
学校一の成績を修める秀才が「俺は天才で優秀だから、特別視されるべきだ!」とかいってたら、サムくないですか?
確かに、優秀なのは実績からわかるけど自分でそれいう?みたいな。
フェミニストは、女性の権利や性差を主張するという方法で男性にマウントをとっているともとれるわけです。だから、申し訳ないけど男性の多くはサムいと感じている。
だからあまり世の中的に大きくは変わってないんです。フェミニストの人たちは、逆に男性陣が同じような活動を始めたらサムく感じると思います。
マウントの取り合いをやめれば世界は美しくなる
そもそもすべての差というのは個性であり、多様性をうけいれるまでもなく、多様性というものは当たり前のこと。
受け入れるとか、許すとかそういうのではなく、多様性があって然るべきで自然とそれは許容すべきもの。
マウントの取り合いなんてするまでもなく、すべて同じように正しく、あるべくしてあるわけです。
女性の権利も、LGBTの権利も、本来そこにそもそもあったもので、声高に叫んでお互いにマウントを取り合うものではないんです。
ただ、受け入れる。それだけ。それを全人類が自然とできれば、自然とお互いに気遣い合う美しい世界になるはず。
でも人の欲が、差別をうみ、優位に立ちたいが故にマウントを取り合う。
これ、やめた方がいいですよね。
ネットで流れる美談も「こんな美談を取り上げる私はすばらしい」みたいな思惑を感じてならない。
そういうのは広がるものであり、別に無理に広げるものではないはずです。
なんか、そういう違和感ありませんか?