お金持ちになるにはESBIのBかIを目指せ!
これはロバートキヨサキの本を読んだことある人なら伝わるかもしれません
今本が有名になったことで、一般人はみんな「よし!自分でビジネスを!投資を!」と気合を入れ「サラリーマンはオワコン」「労働収入乙w」などと吹聴します
でもその結果をみてください
- 自称プログラマーのプログラミング教材
- 情報商材以下の価値しかないコンテンツビジネス
- 人気だけのインフルエンサー
などなど「ぶっちゃけ害しかないビジネス」が魑魅魍魎のように跋扈してますね。
全く美しくない。
たしかに、経済的にはビジネスを持つ、投資家になるというのは金持ちになる近道にです。『経済的には』ですね
でも『人生的には』どうだろう?って話
この記事では、そういうのに違和感を感じてる人のために『新説・ESBI論』をまとめます
目次
ESBI(キャッシュフロークワドラント)はもう古い概念
たしかに、右に行くほど金持ちにはなりますし、フォーブズの資産家ランクをみても全員事業家または投資家です。
なので理論としては正しいです。
でも、ちょっと考えてみてください。
ESBI(キャッシュフロークワドラント)は人生の幸福の指標ではない
「今からこの会社のCEOをやってくれ。報酬は年10億。株もわたそう」
こういわれたら、ほとんどの人は激ヤバ案件きたー!ってなりますよね
でもその後にこう言われたらどうでしょうか?
「でもこのビジネスは、合法の人身売買ビジネスだ。法的リスクはない。え?倫理的にどうかって?他人がどうなろうとキミに関係あるのかい?」
これで「そうっすね!あざっす!」ってなるあなたは、お金稼ぎ教の教祖になれるのでどうぞ。
でも、善良的なあなたは「10億と人としての尊厳」どっちをとるでしょうか?
たぶん、仮にやってもいつしか精神的に参ってしまうはずです。
報酬で年10億ってことは、会社にはそれ以上の利益があります。株の配当や資産価値をいれたら、あなたは一瞬で資産家になるわけですけど。
逆に、こう言われたらどうでしょうか?
「年300万だすよ。それでキミの好きなことをやるといい。でも売上は会社に入れてね」
好きなことを好きにやることで、年300万円の収入が確約されています。
さて、この2例で『人生的に』幸せなのはどっちになるでしょうか?
前者はビジネスオーナーで、後者はただの労働者です。
僕は後者の人の人生の方が幸せなんじゃない?と思うのですが…
あなたはどっちを選びますか?
ESBI(キャッシュフロークワドラント)のワナ
この指標は『どう稼ぐか?』の指標でしかないということです
- 労働者
- 自営業
- オーナー
- 投資家
この4つの世界なんです。つまりHOWでしかないんです。
『なにをするか?』というWHATは抜けてるわけです。
働く、お金を稼ぐというのは、この2つの組み合わせです。
例えば、コーヒーを仕事にしようとすれば、
- 労働者:カフェ所属のバリスタなど
- 自営業:自分のコーヒー屋
- オーナー:コーヒショップやカフェのオーナー
- 投資家:コーヒー関連企業の株主
になるわけですが、もし、あなたが『自分で美味しいコーヒーの淹れ方を追求し、それを人が飲んでるのをみたい人』だったら、どこのクワドラントに入るのが幸せでしょうか?
どう考えてもプレイヤーなので、労働者や自営業ですよね。
オーナーは人に任せるのが仕事なので、自分で動くことはしません
投資家はもっと現場に関わることはできません
つまり、投資家よりもカフェでバリスタやってる方が幸せなわけです。
このように、HOW×WHATで働き方は決まるのに、ESBI(キャッシュフロークワドラント)はHOWしか考えてません
だから『お金稼ぐ教』が増え、労働者軽視の文化ができ、それに踊らされる人が増えました。
HOWとWHATのミスマッチが不幸を生む
まあたしかに、労働者は大変といえば大変だし、経済合理性だけを考えれば、搾取構造になってしまってはいます
だけど、だからといって軽視される存在ではなく、明確に労働者で幸せだという人もいて、それは立派な選択なわけです。
でも、多くの人は洗脳によって『労働者では幸せになれない』と感じていて、多くのオーナーは労働者を軽視します
だからなかなかいい環境や好きな仕事で食べていけないんです
いくら好きなことでも、家族がいて生活費があがるのに『月給15万でサビ残だらけ』なんてなったら、好き以前の問題になってしまいます
その結果『我慢』することになったり、クソどうしようもないビジネスを始めてしまったりします。
そうならないように、僕はメルマガで『好きを仕事にする方法』をお伝えしてるのですが…まぁ、これはみたらわかります。価値しかないです。
今の世の中は、歪んでいて、その歪みがさらに人を歪ませます。
僕らが追求すべきは、それに流されず、自分の幸せの形を可視化して、それが作れる環境を手に入れることです。
いくら稼ぐか?とかどう働くのか?は問題ではなく、結局のところ自分の心の痛みをちゃんと感じられるかどうかだと思うんですね。
でも、これは、自分の主観ではなく、周りの人からみても「あぁ、あの人はちゃんと生きている」と思われる「主観と客観の一致」がしている状態でのこと。そこにまで至れるかどうかだと、個人的には思っています。